ボーカロイドに恋をする
ここ数日、毎日数時間も観ているにも関わらず、いまだ飽きずにボーカロイド達を追いかけてしまいます。
その原動力は明らかに「萌え」なのですが、じゃあ自分は彼らのいったいどんな部分に萌えているのかをちょっと考えてみた。
そもそも、機械キャラクターの抱えるテーマの王道は、『彼・彼女が機械にも関わらず人の心を持つようになること』でしょう。
最初は、冷徹で万能の存在として描かれる機械達。
そんな彼らが、「こんなものは、プログラムにはないのに…」と戸惑いながら、
ひとの想いに、感情に、そして愛に目覚めるシーンに、あなたも一度は心動かされたことがあるはず。
けれど、ボーカロイド達に対する萌えは、ある意味その「逆」なんですよね。
彼らボーカロイドはベースにしっかりとした個性を持っています。
最初から、受動的な存在ではなくある程度能動的で、ちゃんとした自我がある。
(というより、ニコニコ住民たちによってどんどんとキャラ付けされちゃった、っていうのが実際ですが・笑)
「ご主人さま」「マスター」と隷属的立場をとりながらも、「ちゃんと歌わせてね☆」とウインクしてくれるわけです。
ところが、人の心があるからといって、完全な存在ではない。
逆に、彼らには、豊かな感情があっても「能力」が無い。
気持ちがあってもそれを人のように上手く表現することができないのです。
その不完全さを補おうと頑張る姿こそがいじらしくて、愛おしい!
「できないことがある」ところに人間味を見出していると言ってもいいかもしれません。
(機械だからできない、のにね!)
ここまで、上手く比較できてるかな?
で、もう少し考えてみると、両者は逆、とは言ったものの、共通する部分もたくさんあります。
例えば、前者は「気持ち」を知ることで"人"に近づき、後者は「歌」を"人"のように歌いたいと願う。
両方、変化のベクトルは人(=主人である自分)へと向かっています。
では、両者とも、全ての機械は「人になる」というエンディングが最高なのでしょうか?
いや、そうではないんだ!
今回、考えていて、そこにカナタがボーカロイド達に感じる最大の魅力があるような気がしました。
「ボーカロイド達よ、完全になんかならないで!」
最初に人格を持たない機械キャラクターの場合、彼らが人間的な部分をみせることで、「萌え」が生まれます。
終始完全な機械として存在し、定型通りの反応をされるだけでは、こちらも愛情を抱きにくい。
予想とは異なるリアクション(典型例だと「照れ」や「喜び」)を取ってくれるからこそ、こちらもキュンとするのです。
ところが、既に人格を持っている機械キャラクターは、最初から、その能力の不完全さが「萌え」なわけです。
ボーカロイド達だって、「上手く歌えない」からこそとても愛おしい。
そして、上手くできないことに対して、困ったり、怒ったり、恥ずかしがったり。
感情豊かな反応をしてくれるところに愛を感じるのです。
そして、これらの萌え要素が最大限に発揮されるのが、彼らが喋った時ではないでしょうか。
彼らのキャラクター(性格)を台詞から感じると同時に、そのたどたどしさから機械らしさも感じることができるという…
ということで、カナタはボーカロイドがお喋りする作品が大好きです。
よく喋るKAITOといえば、ぱんつP作品。
他の作品もお勧めです。 ⇒ぱんつP作品リスト
いずれリンやレンも喋りだすのかなー?
ただ、ミクやカイトは、その歌や喋りの下手さがアホの子イメージに繋がっていったと思うけれど、リンレンは彼らより後の登場な分、対照的に賢そうなイメージがあるので、それを崩さずフリートークをさせるのは大変そう(笑)